みこちゃんエッセイブログ

みこちゃん節のエッセイブログです

教養とはなんだろう…盗んだ金だね

 

 わたしのnote友達の方が「スズキ・メソード」という教育方法にとても興味を持ってくれました。とても嬉しいです。嬉しいと言っても私は会員が増えて喜ぶ組織の幹部の人ではありません。

 でも、なぜだか私達世界46カ国で40万人の会員は、そういう言い方をしたくなるのです。それは、スズキ・メソードがバイオリンの早期教育というものを超えた普遍的な教育思想を持っているからだと思います。

 この新書の副題にちっこく見えますように、鈴木鎮一 先生の教えの根幹には「才能は生まれつきではない」というものがあります。もう一つこの言葉と並んで有名な言葉に「どの子も育つ。育て方一つ」というのがあります。

 スズキ・メソードでは10割に近い人がバイオリンを三歳から始めるのですが、三歳児は当然一人では教室に通えません。お父さんかお母さんが引率するわけですが、ほとんどの父兄がこの本を読んでます。そして、毎月1回きちんと製本された会報が本部から送られてきます。鈴木先生の遺言満載の心が洗われるような会報で、それを家族で読んでいます。

 「なんじゃそりゃ、宗教みたいだな。」

 実際私もそう言われたことが何度もあります。

 もちろん宗教ではないのですが、もし鈴木先生の教えを一つの共通の拠り所として世界中の40万人の会員が心の絆をしっかり感じているとしたら、それは宗教的な何かなのかもしれません。

 無神論者のみこちゃんではありますが、バイオリンを弾いていると宗教的な気持ちになりますし、鈴木先生のお言葉を借りれば「愛に生きる」感じが実感として湧いてきます。

 三歳からバイオリンと言うと、もうひとつ良く聞かされてきた言葉があります。

「へー、英才教育か、すごいね、教養あるんだね」

 最近このnote界隈でも化けの皮がどんどん剥が(さ)れてきて、みこちゃんがとんでもない不良らしいということが白日のもとにさらされつつありますが、私にとってこの言葉ほど居心地の悪いものはありません。

 鈴木先生の教えは教養を身につけさせるということではまったくありませんし、私が教養ある人間だなどとは、私をよく知る人は一人も思っていません。私は教養を身につけたいと思ったことは一度もありませんし、むしろ教養の大切さを説く人たちとの接触を極端に避けてきました。

  私にとっては、教養というのは人と人との間に垣根を作ることとしか思えません。一つの教養を身につけることは、それとは別の教養に寛容でなくなることなんじゃないのか…そんな気がします。

 それが主義主張の対立ならまだいいのです。

 でもでも、それが、教養のある人とない人という分類になってしまうと、もうついていけない。そもそも教養ってなんですかね…。本をたくさん読んでいることですか?

 私は確かに本はたくさん読みました。

 でもそれは、生きていくのがつらすぎて、おまけにそのつらさがどうやら世界中で自分だけに固有のものであるらしく(今思い出してもこれに気がついた時は恐ろしかったです)、親にも相談できない…こういう時期に、それでも、私に依存に近い状態で頼ってくる後輩連中が女子校時代の6年間いっぱいいた。

 なかなか、その立場を降りれなかった。役得としては同輩や後輩から貢物が常に手に入ったことだな(^~^)。バレンタインデーなんか毎年300個以上もらってたから、学校でもらっても持って帰れない。宅配便で自宅に送ろうかと思ってたよ(爆)。

 だから状況的にプチカリスマとして生きていかないとだめだったくせに、私だけにとっては、私の頼るべき存在は、私じゃなかったんだ。

 自分こそ誰かに依存しないとやばい状態だった…。

 だから、必至に本に救いを求めただけの話。そこに教養もへったくれもなかった。

 自分の特殊な悩みは後回しにしつつ、幅広い角度から私を頼ってくるかわいい後輩(同輩もいた、先輩も少数いた)に、みこちゃんは明るく強い頼りがいのある先輩として振る舞うことが求められた。

 必死だった。


 お金がなくて、餓死しそうな人がパンを盗むようにして、私は本を読んだだけです。

 借金でクビが回らなくなった人が銀行強盗してお金を手にしようとしたのとも似ている。

 だから私は泥棒や銀行強盗には非常に強い親近感を覚えます。自分では多分やらないと思いますが、その切羽詰まった心のありかたは分かる気がする。少なくとも教養のある人間より泥棒や銀行強盗が私の友達にふさわしい。

 パンが欲しかったんじゃないんだよね。お金が欲しかったわけじゃない。何かをクリアしないとそれ以上生きていけなくて、しかもそれしか手段がどう考えても見つからなかった。

 私もそうだった。本当は後輩にはこっちから悩みを聞いてほしかったくらいだったがそれはできない。いったんは引きこもって生きる指針を、深夜、書籍に求めざるを得なかった。祭り上げられた自分に陶酔していたわけじゃない。そんな趣味を楽しむ余裕はなかったな…。もうあの時代は、なつかしいけど、戻りたくないかな…。

 弱みを見せればよかったという人もいるかも知れない。

 しかしそれは自分のために弱みを見せれば楽になるということを意味することだった。「みこ先輩もつらいんだね」一緒に泣くか?じゃあ、彼女たちが泣き終わった後誰がどうするんだ。そして泣き止まなかったら誰がその涙拭いてあげるのだ。

 傷のなめ合いは彼女たちが求めるものではなかったし、私はそんなことをする私の周りの女の子には「そんなことじゃ何も解決しない」と言ってきた。

 そして、彼女たちは、涙ためて頷いて私に強いみこちゃんを必死に求めていた。


 その当時もバイオリンは楽しかった。

 今でもそうだけど、弾きはじめて没頭すると10時間くらいやっていることがある。文字通り寝食を忘れる。

 さすがに、トイレくらいは行くので、コーヒー淹れたりして鈴木先生の著書や会報をめくったりする。

 三歳児の子供が汚れのない顔でバイオリンを弾いて笑っている。横にはいつも引率しているであろう、お父さんとお母さんがいる。

 会報には毎号何枚も鈴木先生のお写真がある。いつも三歳児と同じ笑顔で笑ってらっしゃる。

 教養なんて、そこには何もない。要らないからだ。愛があればいいな。それで十分だ。

 教養が武器になったことは私には一度もないし、教養を武器とする生き方だけはしたくない。

 教養を武器にするな、後輩にもそう教えた。わかりにくい教えだったようだ。でも、よくわからないけどみこ先輩の最重要な教えの一つということで、合言葉のようになっていた。

 

 不幸にして自宅が火事になったら、まっさきに持ち出したいものとして、小さな巾着がある。私が部屋に引きこもっていた時にしたため、部屋から出た時に親に渡した手紙だ。

 親が静かに涙を流してくれて、小さな巾着を買ってきてくれた。そしてその手紙を目の前で巾着に入れてくれて、「一生持っていろ」と渡してくれた。

 以来一度も巾着は開けていないが、文面は一字一句覚えている。

 中にこんな一節がある。

「心配をかけてごめんなさい。今私はつらいですが、今のこの私のつらさを、後から私と同じ道をたどってくる誰かのためにしっかりと受け止めたいと思います。誰かが私に追いついたら、すこしでもまた前を歩いていてその人が付いてこれるように足跡をつけていこうと思います」

 どうして、この言葉を書いたのかはよく覚えていない。でも後から反芻して、私は、これが鈴木先生の教えだとかってに解釈している。

 鈴木先生から直系の弟子の先生方へ、そこから松本市にあるスズキ・メソードの総本山で研鑽を積まれた先生方へ、そして全世界のスズキ・メソードの生徒たちへ。

 手探りでみんな、前を向いて歩いている。

 遠くにかすかに鈴木先生のお背中が見える。時々振り返ってあのお写真でしか知らない笑顔で、こちらを振り向いて気遣っていくれている。

 気がつけば、一本の孤独なまっすぐの道だと思っていたら、その横には40万人の仲間がいた。これが鈴木先生の作り上げた遺産だ。

 排他的な仲間ではない。だって、40万人の仲間はおそらく私と同じように「教養」を一つの武器とするなんてことは、考えたこともないだろうからだ。

 クラシックの世界にはちょっといやらしいところもある。しかしクラシックを聴くのに教養はまったく要らないし、ヴァイオリンを弾くのに教養はじゃまだ。

 たかが教養だなんて、そんなくだらないもので、芸術作品は鑑賞も演奏もできない。

 いわゆる教養があると自分で思いたがる人、教養から最も遠いところにいるはずなのに、教養があると思われて赤面もしない滑稽な人、これから教養を身につけていくんだ!と無駄で間違った第一歩を踏もうとしている気の毒な向上心に満ちた人。そういう人がクラシック界隈にはたくさんいる。

 しかし芸術に教養を持ち出す連中は、真に無教養な人間だとしか思えない。

 私にもし「教養」と呼ばれる要素があるのなら、それは思春期に盗んだ金だし、盗んだパンだ。たくさんの盗みを働いたので、まだ少し財布に残っているかもしれない。

 それを人に誇ったりしたら、みこちゃんの死だ。盗んだもので人に施しはできない。人には何も通じない。愛どころか憎しみも、哀しみも。


 私は読んだ本のことは、一度もそのままの言葉で後輩には伝えなかった。すべて私なりの愛の言葉(みこちゃん流だから必ずしも優しい言葉でもないけど)に翻訳して、一単語に至るまで自分の言葉で伝えた。

 誰かの言葉を私がしゃべったら、きっと後輩たちは傷ついただろう。


 あなたは、自分の言葉を持っていますか。その言葉には愛の裏付けがありますか。愛に生きる、このことの意味をゲーテロマン・ロランも引用せずに、いつか会った時、あなたの言葉で教えて下さい。