いつか一年に一度の特別なじゃがいもを
今週のお題「芋」
神奈川県の西の方に寒川神社という名前の神社がある。私にとっては特別の神社だ。毎年私の家族とおじいちゃんおばあちゃんおじさんと茅ヶ崎で初日の出を見た後、そのまま半分寝ながら電車に乗って、寒川神社まで行く。初日の出のときにはあんなに暗かった空が段々と明るくなっていって、ああ、一年がまた始まるんだなという気分になる。
まだ小学生になる前の私にとって神社の初詣は神さまに何かをお祈りすると言うよりも、楽しいお祭だった。ダルマさんを買うとしわくちゃのおばあちゃんが、一年の幸せを祈願してくれるために、周りの人にも聴こえるような大きな声でお祈りしてくれる。金魚すくいも毎年やった。そして、寒川神社名物のじゃがバター。
あまりにも大きくて、まるでソフトボールの玉のようだった。その頃は一人で食べるのも大変だったけど、みんな食べ終わっているのに私もしっかり一人前を最後まで食べていた。あまりにも遅いので、じゃがいもは元旦の寒い日の朝、最後にはもうすっかり冷たくなっていたけど、それでもそれを誰かに手伝ってもらうのではなくて、最後まで食べるのがなんだか自分が大人になっていくようで、夢中で食べていたことを覚えている。
みんなとっくに食べ終わっていたから、やっとみんなを待たせて食べ終わった私は、容器を捨てるために、一人でゴミ捨て場までトコトコ歩いていった。みんなを待たせてしまった後ろめたさというのもあったのかもしれない。考えてみれば危なかった。
容器を捨ててみんなのところに戻ろうとしたときだった。
「かわいいね」
そう言って大人の人が私の背丈に合わせるようにかがんで、私を抱き上げた。知らない人なので怖かった。その人は今にして思えば酔っ払っていたのだと思う。ほっぺたを私のほっぺたにすりすりして、「キスしようか」とにたりと笑った。知らない間に暗いところにいたので、周りに人はだれもいなかった。
なんか自分がとても悪いことをして、自分がとても悪い子になった気がした。何かとても悪いことをしたので、このようなことが起きたのだな、というなんだか不思議な確信的な罪の意識気が恐怖と一緒になって、声を上げて助けを求める感じにはならなかった。
気がつくと、パパが立っていて、その大人の男の人は地べたにうずくまっていた。何が起きたのかはまったく覚えていないのだけど、多分パパがその男の人を殴り倒したかなんかしたんだと思う。
叱れれる……と思ったけど、パパは何事もなかったかのように、「さあ、お前の好きな金魚すくい行くぞ」と言って、そのことにはその後も一切触れなかった。だから夢だったのかなと思うこともあるけど、私を抱っこしてくれてみんなのところに行くときに、倒れていた男の人の顔を革靴で思いっきり蹴飛ばしていてその人がうめいていたので、その声は覚えている。だから、夢じゃないんだと思う。でも、その話題は今日に至るまで一度もパパと話しをしたことはない。
大学のときに彼氏と一緒に初詣に行った。その頃はもう、おじいちゃんが自由に外に出歩けなくなっていたので、家族みんなでおじいちゃんとおばあちゃんと茅ヶ崎の初日の出と寒川神社の初詣というあの楽しかった行事はなくなっていた。「初詣どこいこうか」という話になったので「寒川神社に行きたい」と行って、茅ヶ崎で初日の出を見て、そのまま昔と同じように寒川神社に行った。
あのときと同じ風景だった。私はあれが夢だったのかどうかを確かめるようにいろいろなことを思い出そうとしていた。それで多分無口になっていたんだと思う。
「もしかして、この場所特別な思い出でもあるの?」
じゃがバターを食べているときに彼氏がいきなりそう言った。
「ないよ別に」
家族と一緒に来ていたといえばよかったんだろうけど、なぜだかそこには封印のように記憶に蓋がされていて、うまく言葉が出てこなかった。
「元彼との思い出の場所なんかに誘うなよな俺を」彼氏が笑いながら言った。
いやあ、ぜんぜん違うよそれ。その言葉がなぜか出てこなくて、私は曖昧に笑った。
その時には彼氏はそう確信していたわけでは多分なくて、かまをかけたのだと思う。でも私が笑って否定しなかったので、彼氏は不機嫌になってしまった。不機嫌を押し隠しているようだった。
その日は生まれて初めて、じゃがバターを残してしまった。
それから金魚すくいも昔と同じように一緒にやった覚えがあるけど、その後なんとなく気まずい感じになって、結局春頃に別れてしまった。
「今度パパと二人で寒川神社にいってみたい」
「いいよ、行こう」
夏休みに行った。パパと一緒にじゃがバターを最後まで一人で食べれば、何かこの靄のかかったようなうつ状態は治るかな……。そう思っていたんだけど、お正月でもないので、屋台は一軒も出ていなかった。
人の気配もなく、屋台のない寒川神社はまるで別の神社のようだった。
「まるで別の神社みたいだね」
「今度はお正月にパパと二人で来たいよ」
「いいよ」
「何で二人で行くのよ」
大晦日にママが不機嫌になっていたが、「いや、今回は二人で行ってくる」とパパが言ってくれて、二人で茅ヶ崎から寒川まで昔のように電車に揺られて明るくなっていく空を見ていた。
パパは何も言わずにじゃがバターだけを買ってきた。寒かった。石の生け垣みたいなところにくっついて座った。
「お前はいつも、一人で最後まで食べてたなあ」
笑いながらパパが言った。
「そうだね」
パパが先に食べ終わって、その後、この神社で楽しかった思いでをいっぱい横でしゃべってくれていた。気がつくと私はじゃがバターを最後まで食べ終わっていた。
あの日のことは何も話はしなかったけど、金魚すくいは昔のように楽しかった。
バス停の方に歩いていくと、そこに「寒川神社で結婚式」というのぼりが立っていた。そうか、ここで結婚式を上げる人もいるんだな。私はなんだかその時うつ状態も吹っ飛んでいたので「結婚するんだったらここでするのもいいなあ」と、突然口にしていた。
「ここで?随分交通の便が良くないところだぞ」
「そだね。思いつきだよ」
「まあ、したいのならすればいいさ」
旦那さんと子供と三人でじゃがバターを食べているのが頭に浮かんだ。また、おじいちゃんとおばあちゃんと来たみたいに、おじいちゃんとおばあちゃんになったパパとママといっしょにみんなで来れたらいいな、そう思った。
いつか、きっとそんな日が来そうな気がした。