みこちゃんエッセイブログ

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分かりやすい文章を書くことへのためらい

 一にも二にも分かりやすいことが求められる時代です。

 悩み多き中高生が悩みごとを友達や先生に相談したくても、「それじゃ何言ってるかわかんないよ、もっと分かりやすく言ってくんない?」このように言われてます。

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でも、それがむずかしいんだよね。

だって、わかり易い言葉にまで整理された悩みというものは、もはや悩む必要もないはずのものだから。

その根源的な悩みは一番聞いてほしかった友人や先生に届かず、いつか気持ちの整理という名で風化します。そしてその子は、やがてそのことを忘れ、快活な分かりやすい話で、人を笑わせることが得意なおとなになるかもしれません。

でもちょっと、待ってよ。
たまにはその忘れ去られた言葉にお線香でもあげようよ。

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私の書く文章は分かりにくい、そもそも文章が下手くそだと散々言われてきました。直そうとはしませんでした…。不治の病なんでもういいやと思ってます。

以下は、結論というほどの結論もない心のつぶやきです。
無縁仏のお線香になればよいな…。と願いつつ。

わかりやすさは、共感を呼びやすいという。「あ、分かる分かる、私もそれ思ったことある」こんな言葉が飛び交います。

でも「共感」とは同じ体験をしたことがあるかは あまり関係ないと思う。

 大抵の人は、人殺しをしたことがないと思います。私も自分でしたことはないですし、リアルでそういう知り合いもいません。でも、小説や映画で人殺しが主人公の作品に共感して、あまつさえ感動まですることもあります。

考えてみるとこれは、変な現象です。

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「わかるよおおう、分かる、分かる。俺も小さい頃人殺したことあるからさあ」

「うん、それそれ。私も高校生の時かごぬけ詐欺で1億円儲けた!だから人を騙す快感わかるぅ」

これなら、いいのです。分かりやすいです。
同じ体験をしているのでいわゆる「感情移入」という共感が可能です。

しかし、作り話の世界とはいえ、自分で体験したこともない殺人映画や詐欺小説に触れて私達の脳はどうして喜ぶのでしょうか。

ここで分かるのは、「ああ、分かる分かる、俺も同じ体験あるよ」という共通の体験というものは、一つの共感や感動の形ではあるにせよ、共感や感動の絶対条件ではないということです。

殺人犯が主人公の映画になぜ感動するのか。殺人はいけないことだというのはこれはもう直感的に分かっているはずです(昨今はそう思わない小学生がいるらしくておそろしいですが、それは今は置いておきます)。

この感動のメカニズムの中には、どうしても殺人を犯さねばならなかった主人公の「必然性の文脈」みたいなものがあるのではないでしょうか。

ひとは、同じ体験ではなくて「ああ、この場面だったらしょうがないかな」というところに感動するものだと思う。それを描き出すのが、現実を超えたリアリティだと思います。その意味で、私は文学が絵空事だとは思えません。文学表現は現実以上に現実的です。

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映画に共感した時には、毎日毎日ギリギリのところで、会社の上司をぶん殴らないで我慢している自分と重ね合わせたりするような「必然性の文脈」が受け手側の心の中に芽生えているように思えます。毎日絞め殺してやろかと感じざるを得ない酒浸りの夫が、今日もテレビを寝っ転がってみているのかもしれません。

「必然性の文脈」があると、人殺しの経験がなくても、生半可に同じつまらない日常的な体験談(井戸端会議?)を語り合うよりも深い心の振幅を味わうことができます。

悩みを打ち明ける子供と同じ体験をしたことはない。でも、その悩みをもしかしたら本人以上に理解することさえも、先生にも、友達にもできるはずです。

いくら同じ体験をしたからと言って「昨日のあのテレビ番組見たあ?」「うん、見たみたああ」というのはせいぜい寿命は30分です。同じ体験はその感動の持続力と比例しません。そして昼休み終了のチャイムとともに雲散霧消してしまいます。

もし、人と人との理解が共通体験の確認であるならば、それは人を動かしはしないだろうし、心に何の作用ももたらさない。ましてや、その子以上にその痛みをわかってあげることは不可能だ。しかし現実にはできるんだ。当人以上に痛みを感じることさえも。

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分かりにくい文章を書くことへのこだわり

このように考えると、わかり易い文章というのはとてもやっかいだ、と思います。少なくとも、同じテレビ番組を昨晩見た友達とテレビの話をするのは、精神的な悩みを打ち明けるときよりも難易度は低いように思えます。

でも、持続力は弱い。
一方で言葉にならない言葉は、必死に私から語ることを学ぼうとしている。

言葉にならない言葉に、最低限の整理を加えて人に読んでもらえるようにするのがアウトプットだと思います。そこには同じ体験は必須ではなく、同じ形をした「必然性の文脈」をどのように想定した読者の心のなかに発見するかが大切になってくると思います。

こうした意識を持たないと、もはや悩む必要もないはずのものを整理することだけがアウトプットになってしまうような気がしてなりません。そして私の経験上ではそうした覚悟を持たないで書く方が、かえって「あなたの文章は分かりやすい」と褒められる。

すくなくとも文章を意識的に書く者にとって、「分かりやすい文章だね」というのは手放しでは喜べない言葉ではないのでしょうか。もっとも、難解さに逃げるのは痛々しいく恥ずかしいので、田舎のニート文学青年にまかせておけばいいわけだけどね。

いったい、もはや悩む必要のない事柄を言語にする意味がどこらへんにあるのか、私にはそれこそ分かりません。多分それで、私はわかり易い文章を書くことが根本的にできないのだと思います。

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文章の洗練でこぼれ落ちるものの中に、本当に伝えたいことがあったはずなのに。悩みを相談する時に言葉にならない叫び声を、ありったけ分かりやすくしようと泣きじゃくりながら伝えようとしたはずなのに。その言葉にならない断片に、本当の魂があったのに、わかり易い文章に整理してしまったら、それが消えてしまう。

必死に悩みを打ち明けようと、ボロボロの日本語を赤面しながら涙してむせ返っていた、あの子の純粋な赤い頬は消えてしまう。

そして、語ることをその子から必死に学ぼうとした、その言霊が不憫でなりません。
なんとなくのまとめ

私は、そういうわけで、わかり易い文章を書くことを心がけていますが、一方でいつもわかり易い文章を書くことへのためらいがあります。

わかり易く文章を書くことへのためらいは、失わないでいようと思いますが、時々誘惑に負けそうになります。

技量の問題だと言ってしまえばそれまでなのかな。おそらくこれは技量の問題だけではないような気がします。その正体は、私にはまだ分かりません。しかし技量の問題だけでないことだけは確かだと思います。

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